会社概要

ワダカルシューム錠の歴史

1911年(明治44年)発売開始

ワダカルシューム錠は、骨がもろくなるのを防ぎ、骨や歯の発育を促すカルシウム剤です。
15錠(成人1日量)で645mgのカルシウムがとれます。

日本発のカルシウム錠剤

三代目和田卯助

【三代目 和田卯助】

「ワダカルシューム錠」が発売されたのは、百年以上前の1911(明治44)年。現在のワダカルシウム製薬の前身であり、大阪・道修町に1856(安政3)年に創業した和漢薬問屋、和田卯助商店の三代目和田卯助が開発した、日本で最初のカルシウム錠剤でした。
現在では骨を丈夫に保つだけではなく、筋肉や血管の収縮に関与し、神経伝達を安定させるなど人間の生命維持に不可欠なミネラルとして知られているカルシウムですが、開発当時は一部の先見の明のある人間にしか注目されていなかったのです。

薬問屋の三代目

キタの大火(天満焼け)

【キタの大火(天満焼け)】

三代目和田卯助は1882(明治15)年生まれ。幼名を政治郎といい、「ワダカルシューム錠」開発時はまだ28歳の若者でした。薬問屋の三代目だった政治郎を日本初のカルシウム錠剤開発に駆り立てたのが1909(明治42)年7月の「キタの大火」または「天満焼け」と呼ばれる大火事でした。
26時間燃え続けた火事は死傷者692人、焼失家屋1万1300戸という大惨事となり、死傷者には和田卯助商店の客も含まれました。復興の槌音が鳴り響くにつれて政治郎は薬屋としての無力さを思い知らされることになりました。
政治郎に転機を与えたのはある年老いた女性の悲痛な叫びでした。1910(明治43)年正月、前年の火災で焼け残った大阪天満宮を訪れた政治郎は、参拝途中で悲しげな女性に出会いました。
「娘が結核で苦しんでます。このまま死んでしまうんかと思うたら、もうかわいそうでならん……。
特効薬はありませんのや」泣き崩れる女性に、政治郎は自身の使命を悟るのでした。

難病に苦しむ人々を救いたい

政治郎がワダカルシューム錠開発に挑んだ和田卯助商店跡地近く(大阪・道修町)

【政治郎がワダカルシューム錠開発に挑んだ和田卯助商店跡地近く(大阪・道修町)】

この当時、結核に有効な治療法は見つかっておらず、不治の病といわれることもしばしばでした。政治郎はこの難病に何か打つ手はないか、必死で文献を掻き集めました。
そんなある日飛び込んできたニュースに、政治郎は思わず期待に胸を躍らせずにはいられませんでした。地元の大阪府立高等医学校(現在の大阪大学医学部)の片瀬淡が、結核の治療にカルシウムを役立てる研究をしているというのです。
早速面会したところ、片瀬もまた結核が国民の健康を蝕む国家病として国家の発展を妨げていることを憂えていました。
「カルシウムによって体や患部をアルカリ性に導くことこそが結核を予防し治療する唯一の方法だ」と片瀬は自説を述べました。片瀬は、健康のためにミネラルやビタミンを十分に摂取して栄養バランスを取ることを重視しており、とくに日本人に不足しがちなカルシウムを積極的に摂取することを提唱していました。
また、適度な運動とストレスを溜めない生活を実践すべきとの考えを持っており、これらは現在では当たり前の考え方ですが、当時はまだ先進的なものでした。

まだ日本で誰もしていないことに挑戦する

「健康増進・結核予防」広告、「安産のために」広告

【「健康増進・結核予防」広告、
「安産のために」広告】

政治郎は西洋薬学や製剤技術に通じた人材を探し出し、錠剤を量産するための機械を選定しました。
そして工程を何度も試行錯誤しながらようやく1911(明治44)年、日本初のカルシウム錠剤化に成功、「ワダカルシューム錠」を発売しました。商品名に名前を入れたのは品質への自信の表れ、国産の和漢薬にはないカタカナの商品名は斬新で現代的なものでした。
折しも戦争により海外からの薬品の輸入がストップし、洋薬の国産化が進んだ時代でした。
1918(大正7)年、和田卯助商店は「カルシューム部」を設立、現在の大阪駅近くに製剤工場を建設して「ワダカルシューム錠」の本格的な生産に乗り出しました。1921(大正10)年からは「健康増進・結核予防」のキャッチフレーズで積極的に新聞や雑誌に「ワダカルシューム錠」の広告を掲載。これで全国民を健康にする礎を築けると政治郎の心は希望に満ちていました。

「安産のためにワダカルシューム錠」

1948年、1952年当時のワダカルシューム錠

【1948年、1952年当時の
ワダカルシューム錠】

ところが政治郎の期待に反して、「ワダカルシューム錠」は当初はまったく売れませんでした。政治郎は「ワダカルシューム錠」のアピールポイントの見直しに迫られました。そのとき、ふと思い出したのが母親のことばでした。
「女性は子どもを産んだら歯はガタガタ、骨はボロボロや」
これだと思った政治郎は1935(昭和10)年、婦人雑誌や新聞に「安産のために」というキャッチフレーズの広告の掲載を始めました。出産にはまだ常に危険がともなった時代、「ワダカルシューム錠」は命がけで出産に臨む妊婦に支持されて爆発的に売れるようになりました。
1938(昭和13)年、政治郎は「三代目和田卯助」を襲名。再び戦争の時代に突入して物資が不足し、空襲で工場が焼失するなど困難が続く中で、戦後いち早く1946(昭和21)年には工場を再建。1948(昭和23)年には現在のワダカルシウム製薬を法人化、設立しました。

「ワダカルシューム錠の百年」

現在のワダカルシューム錠

【現在のワダカルシューム錠】

和田卯助は1952(昭和27)年にこの世を去りましたが、彼が生み出した「ワダカルシューム錠」は2011(平成23)年に製造100周年を迎え、彼の死後60年以上が過ぎた現在もカルシウム剤のブランドとしてお客様に親しまれております。
また、彼が設立したワダカルシウム製薬もカルシウム剤のパイオニアとして、「愛骨精神」にあふれる仲間たちに支えられてカルシウムの大切さをこれからも訴え続けていきます。

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